仙台市民オンブズマン|市民による行政の監視役
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  • カテゴリー: テルさんの「旅」ある暮らし
  • 九塞溝・黄龍6日間(5)

    黄龍に向けて峠越え

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    当日は黄龍見物だが、九塞溝からそこに行くには標高4000メートル以上の山越えをしなくてはならない。
    時間もかかるため早朝の出発であった。
    時間つぶしに車の中で現地ガイドのKさんから、個人的な話を聞きながら行った。
    父親は生粋の共産主義者であり厳格な軍人であったこと、口答えなど一切許されなかったこと、しかし自分はガイドをしながら金を貯めマンションに投資をして値上がりを待っていること等々を正直に話してくれた。

    途中、高山病に供えて携帯の酸素ボンベを買った。
    また、同行のKさんに勧められて宝石店に立ち寄り「天珠」という宝石を買った。
    昔からよくチベットの坊さんが身につけていたそうで、その石は隕石ではないかということであった。
    これを付けていたお陰で飛行機墜落事故の際、その人だけ助かったとの話も聞いた。
    Kさんもその高価なものを首に巻いていた。
    私もそのような話を聞いては買わないわけにはいかず、私にしては「高価」なヤツを買った。

    昨年、これを首に着けて日弁連野球全国大会に臨んだが、あっさりと1回戦で敗退してしまった。
    この石は、厄除けには強く願い事には弱い石なのかもしれない。

    標高4000メートルの峠の頂上は銀世界であった。
    そこからは遠くに4500メートルを超す山々が見渡せる。
    その見晴らしの良いところには、タルチョが巻き付けられたケルンのような石積があり、その脇には雪だるまが造られていた。おまけにヤクまでいる。
    そのヤクに乗り、タルチョと雪だるまを近景に、山々を遠景にして写真を撮れと言わんばかりである。勿論有料で。
    その誘惑に抗しがたく、妻をヤクに乗せて写真を撮り金20元を支払う羽目となった。

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    車で急に標高を上げてきたせいか、その峠当たりから足下がおぼつかなくなり頭も痛み出してきた。高山病の兆候である。
    しかし、そこからは黄龍登山口までは下りなので、次第に治まるだろうとそう心配はしなかった。
    たしかに登山口に着いた頃には頭痛も大分治まり、昼食も美味しく食べることが出来た。

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    ちなみに昼食のメニューだが、そば、大根スープ、トマトとタマゴの炒め物、ジャガイモと鶏肉の煮付け、カボチャ煮付け、豚肉とホーレンソーの炒め物、そして、ヤクとキノコの炒め物。
    ヤクを食べたのは初めてだったが、牛肉のようで全く違和感なく美味かった。

    九塞溝・黄龍6日間(4)

    息を呑むような景観 九塞溝

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    早起きをしてホテルの周囲を散歩した。
    ホテル前の道路沿にはいかにもチベット風の土産物店が並んでいた。
    その背後の山の斜面にはタルチョが林立している。
    また、ホテルのほど近くには仏塔のようなものが建っていて、何の願を掛けてかその周りを何度も何度も回っているおばあちゃんが目に入った。
    これで、ようやくいま自分がチベット地域に入っていることを実感し旅心が深まっていった。

    いよいよ九塞溝見学である。
    ちなみに九塞溝であるが、この景勝地には九つの古いチベット族の部落があることからその名が付いたとのことである。
    その景勝地区には8時半頃に着いたが、すでに中国人観光客で賑わっていた。
    ここは国民にも人気の観光地であり、また、都会では金持ちも増えてきたため、夏の盛りには一日平均25000人が訪れごった返すそうである。
    奥入瀬渓流のような閑かな風景を期待していたが、その点では期待外れであった。
    しかも、そのような大人数を捌くためには、遊歩道だけでは不可能で、そのため景観地区の全長5.6㎞の渓流沿いには、シャトルバスが頻繁に運行されていた。
    特に名勝の湖沼の所がバス停になっていて、そこで降りては再び乗ることを繰り返しながら見学することになっている。
    だから、ゆっくりと静かに景観を楽しみながらと言うことにはなかなかならない。

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    しかし、意識的にそのような人やバスを視界から外せば、数キロメートルにわたる渓流に沿って連なる大小の湖沼はそれぞれみんな澄んでいて美しく、世界遺産の貫禄は十分に供えていることが分かる。
    その色も、エメラルドグリーン、マリンブルーなどそれぞれ湖沼毎に色合いが異なっていて、またその水面にはその周りの樹林の影が綺麗に映し出されていて、それはそれは息を呑むような美しさである。
    また、所々には滝もあり、景観に変化を与えてくれている。
    当日は、このような景観をバスを乗り降りしながらも十分に堪能し、出発地点に戻った時は午後の5時半を回っていた。

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    その夜は、ホテル近くの観光客用の劇場で、チベット民族の踊りと歌を鑑賞した。
    意外と本格的で、民族の誇りも感じ取れたが、折からの騒乱問題もあり複雑な気分でもあった。

    九塞溝・黄龍6日間(3)

    チベットの祈祷旗タルチョ

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    成都空港からのローカルな飛行機で九塞溝空港に降り立ったが、そこは、標高3500メートルの山を削って造られた空港であった。
    4年前に開港したとのことでまだ新しかった。
    ここは世界自然遺産「九塞溝」「黄龍」の玄関口に当たる。
    改革解放後、中国も観光に力を入れているが、ここもその一つで、外国の観光客からも注目を集め多くが訪れるようになっていた。
    しかし、前記のチベット騒動の影響で、見たところ外国人観光客は我々だけであった。

    専用バスで深い山間を縫いながら、次第に標高を落としてホテルに向かった。
    途中、峠や山の斜面や民家の屋根の上に、5色の旗が風に靡いている光景が印象的であった。
    旗には仏教の経文が印刷されていて、それが一度風にたなびくと一度読経したことになると言う。
    タルチョ(読経旗)というのだそうだ。
    これで我々はチベット地域に入ったことは明らかだった。
                        

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    九塞溝の村に近づくに連れて観光客用の綺麗なホテルが目立ってきた。
    しかし、経営者はみな漢族の人で、チベット人はただ従業員として雇われているだけということだ。
    ここだけでなくチベット自治区内では大々的な観光開発が進んでいるが、その利益はほとんど漢族に吸い上げられるだけということで、あのチベット騒動もその当たりの不満にも帰因していると言われている。
    近時、中国の大国家プロジェクトとして開通した青海省西寧とチベット自治区の首都ラサを結ぶ青蔵鉄道も、チベット民族としては「文化の大虐殺のための道具」(ダライ・ラマ)と意識されていると本で読んだ(「チベット侵略鉄道 中国の野望とチベットの悲劇」)。
    私もこの鉄道でラサに行ってみたいと思っているが、こういう事を知ってしまうと、単に浮かれた気分で行くことがためらわれる。どうしよう。

    ホテルには夜遅くに着いた。
    食後、同行のご夫妻持参の高級ワインをご馳走になった。
    こういう意外性は嬉しい。

    九寨溝・黄龍6日間(2)

    パンダ公園見学

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    九塞溝空港に飛び立つ前に、成都市内にあるパンダ公園(成都パンダ繁育研究基地)を見学した。
    そこには68頭のジャイアントパンダがいて、広い公園内の広い柵の中で放し飼いにされている。
    昔上野動物園で見たランラン・カンカンと違い、自然公園の中でのびのびと遊び、眠り、また好物のタケノコの新芽を食べていて皆幸せそうであった。
    東京上野と違い、パンダにとって四川省は我がふる里であり、それもそのはずである。

    ご存じの通り、パンダは絶滅危惧種であり国によって大切に保護されており、四川省内には広大な保護区があり、そこは世界自然遺産にも登録されている。
    また、パンダは中国国家のために重大な外交上の職責を担わされており、中国が大事と思う国に贈られたり貸し出されたりしている。パンダ外交である。
    この間も台湾にも贈られたと聞いたが、そのパンダ大使は、責任は重さに身の引き締まる思いであろう。
    日本でも、上野動物園が年間1億円の賃借料を支払ってパンダを借り受ける契約をしたことについて、賛否の意見があったことは記憶に新しい。

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    政治向きの話は別として、 やはりパンダは可愛い。
    寝姿や歩く姿も可愛いが、あぐらをかいてタケノコをむしゃむしゃと食べる姿は本当に可愛らしく、見ていて飽きなかった。
    帰国後、大地震による被害が心配であったが、我々の行った成都の公園のパンダは前頭無事だったとの報に接しほっとした。

    九寨溝・黄龍6日間(1)

    帰国1週間後に四川大地震

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    昨年のゴールデンウイークに、中国四川省の景勝地「九塞溝」と「黄龍」の見物を主とするパック旅行に参加した。
    チベットへの興味もあり選んだものである。

    三月初め頃申し込んでいたが、そのころ申込者は10人位とのことであり、まあ適当な人数であると思っていた。
    ところが、三月中旬になりチベット自治区のラサで僧や市民らによるが騒乱が発生し、それを軍や警察が有無を言わさずに武力鎮圧したため、世界中から非難の声が挙がり、北京オリンピック聖火リレーへの抗議行動が起こったことは記憶に新しい。
    それに対して中国は、これは国内問題であるとしてますます厳戒態勢を敷いたため、にわかに行き先が危険地域ということになってしまい、旅行の催行が危ぶまれる事態となってしまった。

    私らも少しは迷ったけれど、催行されれば行くことに決意した。
    結果は、参加者が私ら夫婦ともう一組の夫婦の4人となってしまったが、幸い旅行は催行された。
    考えようによっては、これは我々にとって悪いことばかりではなく有り難いことでもあった。
    何しろ4人で1人のガイドを独占できるわけで、そうなれば形式は団体旅行であるが実質は個人旅行となるからである。
    加えてもう一組の夫婦も仙台在住ですぐ気心も知れて親しくなり、まさに個人旅行同然の気軽な旅となったのである。

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    この旅行で忘れられないのは、帰国後1週間後にあの大惨事となった四川大地震が発生したことである。
    一週間後の出発であれば確実にその大震災に遭っていたわけで、そうなれば命もどうなっていたか分からない。
    命に別状はなかったとしても帰国が大幅に遅れたことは間違いない。
    ただただ遇わなかった偶然に感謝する他はない。

    パキスタン旅行(7)

    悲しき世界遺産

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    今回の旅行中、4つの世界遺産を訪れた。
    インダス文明の華モヘンジョ・ダロの遺跡群、 ムガル朝期の歴史的建造物群や墳墓群のタッターの文化財、ムガル朝の歴代皇帝が建造したラホール城塞とシャリマール庭園、中央アジアからの遊牧民の侵入を防ぐために造った大城塞ロート・フォート。

    特に、その内で私は、ヒマラヤ山系を源流とし国土を縦断してアラビヤ海にまで至るインダス川流域に発生したインダス文明最大に遺跡モヘンジョ・ダロに期待した。
    しかし、結果は「やがて悲しきパキスタン」という印象が残った。

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    確かにそこは、周囲4キロ四方の広大な遺跡で、同じ大きさの焼きレンガを大量に使って造られた高度に発達した古代都市で、期待どうりに驚きもし感動もした。
    そして、全景を見渡す丘に発ち、往時そこに3万人もの人々が生活していたという光景を想像し、感慨にふけることも出来た。

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    しかし、その一つ一つを近くで見ると印象は一変する。
    多くのレンガは白い粉をまかれたような状態になっていて、その白いものが塩であり、その塩害によって、レンガは劣化してもろくなり遺跡があちこちで崩壊していたのである。
    なんともやりきれないといった気分となった。

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    モヘンジョ・ダロばかりではない。
    タッターの建造物群でも、綺麗なイスラム紋様のタイルが風化によって剥がれていてもほとんどそのままである。
    ラホール城塞やシャリマール庭園も、老朽化が激しく世界危機遺産に登録されているとのことである。

    現地ガイドも、心から残念がり悲しがっていた。
    そして、その一つの理由として、国家予算の72パーセントが軍事関連予算であることを上げていた。
    特に、インドとの長い間の緊張関係の中では、為政者の目もなかなか文化財保護のほうまでは向かないし、その経済的余裕もないとのことであった。
    悲しき現実、悲しき世界遺産である。

    パキスタン旅行(6)

    ブットー家の墓

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    12月27日、旅行第一日目は、一年前の同日にイスラム原理主義者と思われる男の自爆テロで暗殺されたベナジール・ブットー元首相の命日であった。
    そこで、見学予定のカラチの国立博物館も喪に服して閉館ということで見ることが出来なかった。

    彼女の夫が現首相のサルダーリ氏であることもあると思うが、ブットー女史の威光はまだ相当であるらしい。
    我々のバスにも、早々に故ブットー女史の顔写真が貼られ、弔意を表した。こうしておくと何かと都合がよいということであった。

    町でも田舎でも、ブットー家一家の大きな写真が貼られている場面をよく見た。
    特にモヘンジョ・ダロへの出発基地サッカルはブットー女史の郷里と言うことで、写真ばかりでなく彼女の所属政党パキスタン人民党の旗があちこちに掲げられていた。

    ブットー家はこの地方の大地主だそうで、バスで4時間走ってもまだブットー家の土地が続いていると言う説明であった。
    その反面、小作人が多く子供は学校にも行かずに小さい頃から農作業に就き、そのため識字率は50パーセントにも満たないとのことであった。

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    モヘンジョ・ダロの帰り道、ブットー家の墓に立ち寄った。墓といってもモスクにもなっている大理石造りの大きな立派な建物であった。
    中にはブットー女史を埋めた墓の上に大きな棺が置かれ、その上に赤い花びらがいっぱいまかれていた。

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    彼女の親類だという女性が棺に額を当てて泣いていた。
    我々が行ったとき、丁度地元の新聞記者が居て取材され写真も撮られた。
    記事にすると言っていたが、どうなったか分からない。

    パキスタン旅行(5)

    一寸撮らせて

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    11日間の旅行といっても、カラチからイスラマバードまでの長距離をバスで行くので、 そのほとんどの時間は移動に費やされる。
    だから必然的に、トイレタイムでの一寸した時間、食事時の小一時間が大切な観光の時間となる。
    前述もしたが、これが結構面白い。これが、地元の人と直接触れあう機会でもある。
    どこへ行ってもみんなフレンドリーであることも既に述べた。

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    イスラム圏では女性の写真撮影は原則タブー、本人が了解しても周囲の男性に止められることがあるなどと案内書に出ていた。
    そこでそう覚悟して行ったわけだが、実際にはそのような雰囲気はほとんどなく、民族服を着た綺麗な女性の写真も何枚か撮らせてもらった。
    とはいってもイスラム圏、ドライブインでも市場でも女性は圧倒的に少なかったが。

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    男達や子供らは、積極的に自分らを撮してくれと親しげに接してきた。むしろ、彼らの方が日本人が珍しいらしく、我々が写真に撮られたこともあった。

    パキスタンは対日感情が良いらしく、写真を含め旅行中不快な思いをしたことはなかった。有り難いことである。
    ついでながら、アメリカ人は快く思われていないということであった。

    パキスタン旅行(4)

    -マリ-ビ-ル万歳-

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    パキスタン行きには躊躇があった。
    その最大の理由は、パキスタンはイスラム教を国教とする禁酒国であったからである。

    私は40数年来、病気入院とイラン旅行をしたとき以外酒を飲まなかった日はないといった超愛飲家(アル中寸前)であるからである。
    しかし、インダス文明とガンダーラ遺跡に対する興味が勝り、遂に意を決して決行と相成ったわけである。
    だから、同国にもマリービールという国産ビールがあると聞いた時には、一寸力が抜けた感じであったが、すぐにほほえみに変わった。

    説明では、パキスタンにもキリスト教やヒンズー教などのマイノリテイ-が居り、その人達用に造っているということであった。
    その人達は申請をすれば、大人の人数割で一家に一月何本と買うことが出来るという。
    また、高級ホテルでは、外国人に限りパスポートを示せば買える、但し部屋で飲まなければならないということであった。
    しかし、我々は高級ホテルには泊まらなかったのでその機会はなかった。

    だが、どこの国にも表があれば裏がある。

    現地ガイドの努力で、ラクダで古城を巡った後の砂漠のテント内での夕食時と、1月1日午前0時の「ハッピーニューイヤー」の時に飲むことが出来た。
    そこで、どのような努力で手に入れることが出来たのかと聞いたら、「買う権利があっても飲まない人や飲めない人がいる。そこがポイントだ」ということであった。

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    そう言われれば、それ以上の説明は不用。
    私も法律家のはしくれ、それ以上説明されては私も困る。
    ただただ感謝しながら有り難く飲んだ。

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    特に、砂漠での夜は、満天の星の下キャンプファイヤーも用意されていて、それによる高揚した気分とビールの酔いの余韻をかって、「この最高のシチュエーションを逃す手はない」思い、誰に求められるということもなく、「月の砂漠」を歌ってしまった。

    「マリービール万歳!」だ。

    パキスタン旅行(3)

    -日本のトラック野郎もビックリ-

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    これも車の話であるが、パキスタンに来て最初に驚いたのは、派手派手に装飾されたトラックやバスである。

    現地ガイドは、デコレーション・トラックとかデコレーション・バスとか言っていて、車の前後左右にわたり、極彩色の絵や図柄で装飾されているのである。
    同様にトラクタ-やリキシャも結構派手に飾られている。しかも、ほとんど例外なしにである。これはカルチャーショックといってもいい。

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    現地ガイドに聞いてみたらこうであった。

    60~70年前までは人や物の運搬手段はラクダやロバであったが、商売繁盛のお守りの意味でそれらを派手に着飾るという習慣があった。日本で言えば、チャグチャグ馬ごっこのような飾り付けであろうか。
    その習慣が、運搬手段が動物から車に変わっても残り、また競争心理も働きますます派手になり今に続いているとのことであった。

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    それに費やす費用もハンパではない。車の値段の20%から25%は懸けるという。
    飾り業者の方も忙しいらしく、新車を買う2~4ヶ月前には予約を取っておかないと間に合わないと言うことであった。
    日本でも一頃、トラック野郎が「男度胸の街道稼業」みたいなスローガンを書いた派手な車を走らせていたことはあったが、パキスタンのと比べたら月とスッポンくらいの差があり、「日本のトラック野郎も真っ青」といった感じだ。

    高い金を懸けた愛車だけに手入れも入念で、毎日綺麗に洗っているということであった。たしかに、トラック野郎が良く利用するというドライブインでは、車を水洗いしているところをよく見た。

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    ついでながら、彼らは口が肥えているということで、確かに彼らがよく利用するドライブインのレストランの料理は美味かった。

    仙台市民オンブズマン

    事務局 仙台市青葉区中央4-3-28朝市ビル4F 宮城地域自治研究所内 TEL 022-227-9900 FAX 022-227-3267